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「アートよくわかんない」に対する答え

maliceberryblog

こんばんは、YUKISHIBAです。


自身初の個展もいよいよ開幕。というわけで、久しぶりの「自由を研究する」カテゴリーの記事はアートに関するテーマです。


もしかしてアートをテーマに書くのは初めて…?というくらい、僕は実際のところそこまでアートに明るいわけではありません。ですがそんな自分でさえ、音楽に限らず色々なアートに触れるたびに心が「何となくレベルで」潤っていくのを感じます。


あくまで何となくです。美術館に行くときでさえ、そういう緩いスタンスでアートに触れています。




これまた何となくですが、人々にとってアートって「よくわからないもの」という意見が多数のように思います。


で、見てもよくわからないから見る価値がないと。



よくわからないかもしれないから最初から触れようとすらしないのは、作家である以前に同じ人間としてとても悲しいことだと感じます。


ただそんなお気持ちを叫んでもなかなか届かないわけで、作家サイドも試行錯誤しています。


しかしその試行錯誤が時にアートの存在意義をも揺るがすよな、とも思うわけで、まずはそんな話からしていきます。




彫刻を見ながら覚えるコレジャナイ感


僕目線で特に印象に残っているコレジャナイ感は、さっぽろ雪まつりの一角にある彫刻のコーナー。


実際には雪像ですが、ほかのコーナーと違って人やキャラクターではなく抽象的な形をした、いわゆるアートらしいアートが並ぶコーナーです。



冬になるたび何カ月も街を覆っているあの雪でこんな風になるのかと思うくらい、滑らかな曲線や幾何学的なフォルム。

改めて見るとなかなか非現実的な感じがします。



そんなわけで何だかんだ一つ一つじっくり見て回るんですが、途中から大体決まって

「彫刻見てるんだか解説見てるんだかわかんねぇな」

の感想になるんです。


それら作品たちの抽象的なフォルムは、そのほとんどが「引き算」の賜物。

造形的な情報・表現手段を徹底して削ぎ落し、そうして残ったものを形にする。


で、どういうわけかその削ぎ落した情報とそれ以上のものを長文で色々解説してしまう




どういうわけかも何も「解説しなきゃ見る人が理解できないから」なんでしょうが、

読んだとて「このコンセプトからどうしてこの形になったのか」のプロセスを理解できないので、結局言いくるめられた感や、現代アート特有のこじつけだな~という感想に行き着いてしまう。




彫刻にしろ絵にしろ、本当なら作者も作品の説明なんかしたくないと思います。


特に歌詞付きの音楽なんか特にそうじゃないでしょうか。

歌詞に込めたメッセージを説明するのなんか、お笑い芸人が「今のギャグはこういう意味でここがこう面白くて~」なんて説明をするのに近いものを感じます。


何かを言葉じゃない方法で、見る人の感性にダイレクトに伝えるために作ったものを、どうして後からくどくど説明しなきゃいけないのか。

長ったらしいネタバラシありきだというのなら、アートの存在意義とは何でしょうか。




「理解できる」のがそんなに大事か?


作家は解説文から逆算して作品を作るわけではありません。

そもそも言葉で言い表せないものを表すために作品を作る、つまり言語の代わりに作品で会話をすることもままあるわけで、自分の作品の解説とは一般人が想像するよりはるかにコストのかかる問題なのです。


作家からしたら余計に頭を悩ませるし、読み手は「ふ~~ん(よくわからん)」で終わるしで、誰も得をしないなら解説は無くて良いんじゃないか?とも思うんですが、そういうわけにもいかないでしょう。


こんなことを言っている僕でさえ「どれどれ?」と解説を凝視してしまっているぐらいなのだから。



お金や時間をかけて展示会場なり美術館なりに行ってアートを眺めて、そうまでして「結局よくわかんなかったや」という感想になることの徒労感や、わからないものがわからないまま自分の記憶に存在することに耐えられない人が多いのではないでしょうか。


僕はそうじゃないつもりで生きていますが、恐らく同類なんです。



理解しなきゃ(出来なきゃ)金と時間の無駄だと自分…よりも作り手側を追い込み過ぎる。

難しいものを避けるのは金と時間を守るためのリスクヘッジ。



一方、作家も人に見て貰わないことには始まらないので、たまらず解説など色々用意して「アートは難しくないよ!」とアピールする。


すると見る側はアートそのものから何かを読み取るより先に解説から理解しようとする。

当然、それで見る側が納得する・理解する場合もあればそうでない場合もある。

見る側はそれを自分の理解力不足のせいとは思わない。思ったとしても理解力を養おうとまでは思わない。


結果、作家の言語化能力が作品の評価において大きなウェイトを占めるようになる。

先に触れたとおり、言語の代わりに絵や音楽・造形で何かを訴える作家もいる。

一方で社会は「子供にもわかりやすい」「言語で」伝えられることが大正義になってしまっている


言うまでもなく作家の専門は創作であって解説ではないので、これは由々しき事態です。




アート作品をわかりやすく説明する方法は大きく2つ。

・理解できそうな部分だけ説明する

・わかりやすく説明できるくらいわかりやすい作品を作る


言葉は情報を乗せる器。乗せられる情報量には限りがあります。

簡単であればあるほど器として小さく、少ない情報しか乗せられません。


簡単な言葉で複雑なものを無理やり説明すれば、ほんの一部しか伝わらなかったりうっかり間違った情報を乗せてしまったりで誤解を与えてしまうのは必然。

「わかりやすさ(誰でも簡単に理解できること)」は現代のような複雑な社会でほど強い毒になりうるのです。




理解できない作品が悪いことだったり時間やお金の無駄だったりするなら、

理解できる作品が正しいことになる。


けど理解力は人によってさまざま。敢えて言うなら人々の(ことアートに対する)理解度は想像している以上に低い。

そもそもモチベーションからして低い。だって思考しなくても楽しめるコンテンツが他に山ほどあるんだもの。


そんな思考したくない人にも理解できることが作品の存在要件になるというなら、この世に存在できるアートははるかに少ない。




解説を無くするという観点では、札幌駅の「白オブ・赤オブ」や、チカホにあるベンチみたいな存在になるのは一つの理想といえるでしょう(札幌の例ばかりで申し訳ない…)。


人の多い場所で存在感を放ち、あだ名を伝えるだけで待ち合わせ場所として機能する。

あるいはベンチやインテリアなど、アートという括りではない役割を担う。

作品コンセプトはあるけどそれを知らない人々にも何となく受け入れられる、説明不要の存在になること。


これの致命的な問題点は出来ることの幅が狭まることと、非常に狭き門であること。

それはそうです。駅前のような人の多い公共の場にアートを作れる作家など上澄みの上澄みだし、もちろん無許可でアート作品を作れるはずもありませんから。




「よくわからない」を恐れ過ぎている


アートとは何らかの仕掛けによって人々のその場もしくはその後の感情や行動に変化をもたらそうとする営みを指すと考えています。

この「仕掛け」には絵や彫刻はもちろん、音楽やライブパフォーマンス、そして絵の展示をするときのちょっとした工夫に至るまで様々です。



その本質は作品そのものではなく、作り手・作品・受け手の間にこそあります。

作り手の意思や人生、作品に宿ったもの、受け手の意思や人生。

受け手が作品に歩み寄ることがトリガーとなって、この三者の間に(平たい表現でいうと)化学反応とが起きる。


そこに作者が用意した正解はあっても、それは作者と作品の間で成り立つものであって、唯一絶対の正解はありません。



アートの世界の片隅に生きる身として声を大にして言いたいのは、

「よくわかんない」という感想を恐れないでください。


時間やお金をかけて作品を見に行って、何が描かれているのか理解しようとしたり、その作品を目にして自分の心身に何が起きているのかを理解しようとしたり、作者が何を思ったのかに想いを馳せたりする。

そういうことをして作品に歩み寄って、その結果もし「よくわかんなかった」と感じたなら、それもまたあなたなりの答えなのです。



決して無駄ではありませんし、誰が悪いわけでもありません。

まして恥ずかしいことなんかじゃありません。



正直「よくわかんない」ことなんてざらです(僕だけじゃない…はず!)


作家というのはそう簡単に理解できない深淵を見せて人々を圧倒するのが大好きな生き物です(僕だけじゃない…はず?)


すぐ理解できるようなものばかり量産することに価値を感じられない、一般人からしたら近寄りがたい作家ほど、「難しい」「理解できない」という感想に対してはむしろ寛容です。多分!少なくとも僕はそうです!


屁理屈に聞こえるかもしれませんが、「今の自分には理解できない」ことを理解したのです。これもまたあなたと作品との化学反応。

大事なのはそれでも向き合ってくれたこと、そして「今はまだ理解できないもの」としてひとまず受け入れること




それに、アートって時間差で突然なにかをもたらしてきたりすることもあるんですよ。

初めてみた時は特段何も感じられなくても、後からもう一度それを見た時、或いは思い出した時に突然、今まで見えなかったものが見えるかもしれない。




また、そもそも「よくわからない」のではなく「言語化できない」だけかもしれません。


言語化能力が高い人にばっかり都合のいい社会へのヘイトも込めて言いますが、何かを表現する・伝える手段は言語だけではありません。

そしてどのツールを使うのが得意かによって、その人の能力に優劣は付きません。

言語で表現するのが得意な人もいれば、絵や図、立体や音楽で表現するのが得意な人だって平等に存在してしかるべきです。



僕だって絵を見ていて頭の中に謎の音楽が流れてきたり、謎の景色が映し出されたり、存在しない記憶を呼び起こされたりと色々です。むしろ言葉で説明してしまう方が野暮に感じてしまうほど。


もしアートを見て、何かを感じて、でもそれを言葉で説明できないなら、それだけで「よくわからなかった」と結論付けないでください。




僕等の音楽も、言ってみればわかりにくい部類の音楽です。

自分自身が他人の作品に対して読解力が低いからこそわかりやすいことに価値を感じていないのもありますが、そもそもガクまりは「楽曲の意思」が全てに優先するので下手に改変出来ないのが大きいです。



本音を言えばだれでも気軽に楽しめるよ!と言いたいのですが、恐らく嘘になります。


唯、誰でも楽しめるとまでは言えませんが、描かれる世界への扉は誰でも開く事が出来ます。

未知のものへ心を開いて想像をしてくれさえすれば、老若男女問わず愉しめる音楽だと考えています。

その点は明確に特定の年代・性別をターゲットにしたリアルなポップスとは大きく異なる点ではないでしょうか。



しかしそれでも、初めて聴いた時は異物感が大きいかもしれません。

深く理解しきったような感じはせず、なんとなくの雰囲気をなぞるくらいしか出来ず、頭に入ってこないかもしれません。けどそれで充分です。初見で理解しきれるような作りをしていないので。


「よくわからなかった」という感想に行き着くことを恐れないでください。

頭に入ってこなくても、意識の外からあなたの心の芯まで入り込んでいるかもしれませんから。


僕が思うにアートってそういうものだし、理解しようとするよりまず感じること、頭を回すより心を開くこと、そして謎を謎のまま(好奇心の源や魅力として)受け入れることが、どんなアートも楽しむ何よりのコツだと考えています。




人々の日常がもっとアートに彩られることを願って。



YUKISHIBA

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