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maliceberryblog

自由を追うなら幸せになろうなどと思うな



多くの人が当たり前のように生きる目的にしているであろう「幸せ」。

今回は最近共感したとある漫画の台詞を元にしながら「幸せを捨てることで幸せになる」可能性を考えます。




こんばんは、YUKISHIBAです。



多くの人は「幸せになるために」生きている。

少なくとも、不幸になるために生きている人なんてそうはいません。


けれど同時に、その思いが強まれば強まる程幸せが何なのかわからなくなり、まるで四葉のクローバーを見つけるために地面を這いつくばるような人生に。


また世間的に望ましい幸福な生活を出来ているのに、なぜか満たされない思いが募り続け、いつか変な方向に暴発してしまう…。




この話をしようと思ったきっかけは、Twitterでとある漫画のワンシーンを偶然目にした時。

(そう、僕はかなりの割合でTwitterから話のタネを得ています)


そのシーンの台詞に不覚にも共感してしまいました。



分かる人はきっともうタイトルで気付いていたでしょう。


それがこちら。




「男なら幸せになろうなどと思うな。幸せになるのは女と子供だけで良い。」


『魁!!男塾』のワンシーン。



…これでも僕、覚えている限り4~5歳でジェンダーフリーの概念を獲得していて、男らしさ、女らしさを決めつけるような話は大嫌いだったんですよ?(今も好きじゃないですよ?)



勿論今もその辺は健在、この台詞も言葉の通りに受け取ったわけではなく。

人生経験フィルターを通して自分なりの解釈が出来たからこれだけ共感できたのです。



…ところでこれ、読み方「さきがけ!!」で合ってますかね??←


実は漫画エアプ勢なので話の内容はよくわかってません。なのでこの台詞がどんな文脈で出てきたものかもわかっていません。


それでもこの台詞は、僕の人生観を端的に言い表しているように感じられました。

言い表すだけでなく、その力強い表現で僕の背中を押しているかのように。



よって原作ファンにとっては「そういう場面じゃねー!!」と感じる話もあるかもしれませんが、どうかご了承の上読み進めてください。



誰もが幸せを願ってはいない


「誰もが幸せを願ってる」と某曲の歌詞にもあるのように、多くの人が「自分は幸せになるために生きている」と信じているのではないでしょうか。



僕は知らず知らずのうちに、幸せになることが人生の至上命題かのように思っていました。

実際、友人やマリベリの同志には幸せになって欲しいと本心から思うし、彼らが傷ついていたら本当に許せない。


自分もまた幸せになるために生きていると思っていたし、だからこそマリベリの掲げる理念《魂への愛と解放》が導く究極の結末は「幸せな人生」なんだと思っていました。



けれど、現実は違う。



誰もが幸せを願っているわけではない。


それは、

幸せを手に入れることが本当に幸せだとは限らないから




まるで狐につままれたような文ですが、

第一、世の中でいう「幸せ」ってなんでしょうか??


成功すること?

好きな人と暮らすこと?

好きなものを食べること?

健康でいること?

長生きすること?

戦争や事件・事故に巻き込まれないこと?

お金や地位を得ること?

好きなことをずっと続けること?



こうやって挙げてみると確かにどれも魅力的。いやどれも欲しい。

だからこそ今の今まで僕は幸せになりたいんだと信じて疑わなかった。



けど、これらは何一つとして本質を突いてません。


理由は簡単。これらを手に入れるために生きてるんだとしたら、今頃音楽なんかやってること自体おかしいんです。



あくまで趣味で、人生の片手間でやってるのならまだしも、僕みたいに本気でマリベリを大きく育てようとしているなら「幸せになりたい」なんてどの口が言うのかと。




だって、華やかでいられるのはごく一部の人たちで、成功するのは更にほんの一握りで、モノが良ければ評価されるわけでもない。

どうやったら成功するのかは成功者や研究者でさえわからない、そんな理不尽な世界ですよ。


新ビジネスで成功を収めるよりも難しいとされているのが、僕が片足を突っ込んでいる芸能という世界です。




こんな世界に踏み入れた時点で、いや音楽というものに夢を見出した時点で、僕はきっと長生きも出来ないしまともな死に方も出来ないでしょう。


普通の真っ当な社会人をやってさえいればこれからますます脂の乗った人生を送れる、という時に僕はお金もなく、誰にも気づかれず消えていくかもしれません。


かもしれないというか、理解して覚悟しなきゃいけないのだと思っています。




唯、それでも尚音楽の道を進まずにはいられない・中途半端な活動をしたくないのは、そもそも幸せになりたいと思っていないから。


幸せになることが、僕にとって本当の意味での幸せではないから。




幸せより大切なもの



今回引用した「男なら幸せになろうなどと思うな」「男なら死ねぃ」を僕なりの人生経験フィルターを通して言い換えると、

「夢を追いかけるなら、夢と心中する覚悟を決めろ。月並みの平穏・幸福まで追いかけるな」

「月並みの幸福・安穏よりも尊いと思える己の生き様を見つけたなら、それを貫け」

となります。




もしこれを読んでいるあなたが音楽や声優、VTuberのような過酷で理不尽な世界を志せば、家族や学校の先生は止めるかもしれません。


もしあなたが今安定した職場に勤めていて、独立・ビジネスを起こしたいというなら、パートナーは思い留まらせようとしてくるかもしれません。


その先には多くの人が思い描く・手の届く「幸せ」はきっと無いからです。

何なら、夢も平穏も得られない惨めな結果・短命な人生に終わる可能性さえあるからです。



でも、そんな「幸せ」よりも大事なものを見つけたから、あなたはその道を望んで、心を燃やしているんですよね。


だとしたら、たとえ荊の道だとしても、そこを進める限り進むことが、あなたにとって本当の意味で「自由」のはずです。



「自由」というのは厳しい道です。

危険な道を自ら選び進む行為です。

より長く・平穏に生きたいという至極真っ当な本能に逆行する行為です。


だから大半は自由を捨てて安全を取るし、自分の友人や子供にもそれを求める。



自由、夢…一見命を粗末にする愚かな選択ですが、そういう選択が出来る人も人類にとって必要であることもまた事実。

でなければ今頃そんな「愚かな」遺伝子は淘汰されているはずですから。




いいんですよ、幸せになんかなれなくたって。

幸せなはずなのに人生不満そうな人だって、世の中ではありふれた存在。


幸せになれない人生=間違い・失敗ではないんです。



本当に間違いなのは、大して欲しくもないものを得る代わりに後悔を積み重ねて死ぬこと。

そう考えています。



幸せを捨てることで得られるものがある


僕が音楽を始めた頃はきっと「音楽で幸せになりたい」と思っていたはずです。そしてその裏には大なり小なり「(好きなことだけして)楽に生きていたい」という下心があったのだと思います。


まぁ、きっと人が最初に夢を目指す時ってそんなものなのではないでしょうか。



「見ている」間はただの下心。挑み始めてからが本当の「夢」です。


僕も、実際に手を動かして音楽活動を始めてからは何度も何度も壁にぶつかりました。

惨めな思いも屈辱も何度も味わいました。


これまでの僕レベルでもそうなのだから、よりプロに近いフィールドにいる人がどんな目に遭っているのか、想像するのも恐ろしいくらいです。



それに、音楽をしたいなら会社勤めする傍ら音楽活動するのがさも当たり前かのようになっていますが、はっきり言って人生の6分の1程度のリソースでは音楽は趣味にすらなりません。


それだけ音楽は膨大な労力や時間を必要とするものです。


(無論、それを「才能が無い」と切り捨ててしまうのは簡単ですが。)




斯くして音楽中心の生活へと移って今に至る僕。

褒められた生き方はしてないという自覚はあります。楽では決してないし、幸せになる可能性はもうほとんど残ってないと思います。



その代わりに、幸せを諦めることでしか見ることの出来なかった景色を、今見ています。

音楽のおかげで。



その辺、夢を追うという行動は登山に似ているとも感じます。


舗装されていないうえ一つ間違えれば簡単に命を落としてしまう険しい道を自分から進んでいくなんて、普通の人からしたら何故わざわざそんなことをするのかわけわからないですよ。


それでも山を登るのは、下界では大凡味わえない絶景や澄んだ空気、或いは感動を味わえるからではないでしょうか。




自由を追うなら幸せになろうなどと思うな。



幸せになるのは自由に飽きてからで良い。




自由人なら死ねぃ(これは言い過ぎ)




身と命を削っているという点は確かにそうなんですが、でも実際好きだから・自分が望んだからやっていることには変わりありません。

美しい山を目にして登らずにはいられない登山家と同じように、心の底まで差し込むような強烈な光を目にして、その先へ進まずにはいられないのが自由人、あるいは夢追い人という人間なのでしょう。



YUKISHIBA

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