テ。-何かを成す者の手について-
- maliceberryblog
- 6月18日
- 読了時間: 5分

※本編の前に余談なんですが、サムネイルのかわいい生き物は今回のテーマと関係ありません。
テーマは「手」なので普段サムネ素材を仕入れるのによく使っているO-danというサイトで「掌」と検索したらなぜかヤシの木の画像に紛れてこの生き物がヒットしたので、どうせなら可愛い方をとこの生き物をチョイスしました。
こんばんは、YUKISHIBAです。
突然ですが、
誰か(何か)に腹が立った時独り言として「死ねや💢」っていう人いますよね。
死ねだなんて野蛮ですねぇよくないですねぇ。
ユキシバは死ねなんて言いません。
「殺すぞ」って言います。
「死ね」と「殺すぞ」の違い
遡ればまだYUKISHIBAになる遥か前、大学受験を目前に控えていたタイミングで僕は失恋という終わらないボディブローの痛みに晒されていました。
悪いことに、受験が近いということはクリスマスも近いということ。
そんな火薬庫状態のメンタルで予備校に通う途中のエスカレーターで、狙いすましたかのように道を塞いでいちゃこらするカップル。
後ろから通りたそうな空気を出す僕に気付いていなかったのか気付いていて見せつけたかったのか、終点までたっぷり見せつけてくれました。猿共が。妊娠しろ。
エスカレーターの終点で追い抜かす瞬間、それまでに感じたことのない怒り(AngerではありませんFuryです)に駆られ、喉を突破して口を突く寸前まで噴き上がった言葉も
殺 し て や る
でした。
決して「死ね」でも「爆発しろ」でもなく「殺してやる」でした。
これ、似ているようで全然違います。
「死ね」には
「自分に迷惑のかからないとこで勝手に死んでくれ」「自分の手は汚すことなく命だけ奪いたい」という意図が暗に含まれています。
つまりは他人任せなのです。
一方「殺すぞ」には敵の命脈を断つために「自分が積極的に手を下す」という主体性が込められています。
かなり昔から、全く意識してないのに「死ね」でなく「殺す」だったのが、思い返してみたらなんか不思議に思えてきまして、もしかしたら何か教訓的な意味があるのかもしれないと思い考えてみました。
「欲しければ己の手を汚せ」の文化
これは多分、でも割とはっきり心当たりのあることなんですが、ガクまりには「自分の手を汚す」ことを良しとする文化、反対に言えば自分は綺麗なまま欲しいものだけ得ようとすることを良しとしない文化があります。
何かを得ようとする・成そうとする人の手は、どれも汚れています。
作品を一人でも多くに届けたい、公演に一人でも多くを呼びたい…(自分がこういう分野なのでこういう例えになってしまいますが)
規模や分野は様々在れど、人生どこかで「成功」を目指して踏ん張る場面があると思います。
ですが、「成功」を得ようともがけばもがくほど人は失敗し、恥を晒し、倫理や道徳に反し、他人の顔に泥を塗り、期待を裏切り、意図して、もしくは意図せずして自他を傷つけます。
他人を利用したってそれは変わりません。
例えば殺し屋に依頼して標的を始末したとして、自分は手を汚さずに済んだかといえばそんなことはありません。殺し屋に依頼した時点で罪の所在は自分自身です。
また、一度汚れた手はどんな方法で洗っても綺麗になることはありません。
どんな成功を収めたとしても、その過程でかいた恥やかかせた恥、他者を裏切ったり傷つけたりした事実は消えないし、そうした事実への罪の意識や悔恨は残り続けるのです。
でも、それら全てを背負って立つ。
僕だって、会合の場でやらかした経験だって色々あるし、それで参加者に不快な思いをさせたろうなと、ずっと引きずってます。
賛否があるのは認めますが、僕は敢えて謝りません。こういう場合謝るのは「自分が許しを得る為の自分本位な行為」だからです。
今回のテーマになぞらえれば「手についた汚れを洗い落として綺麗になろうとする行為」。
でも自分がすっきり綺麗になる為に傷ついた人間に対して「許し」を半ば強要するような行為、残酷でみっともなくてとてもできません。
「引きずる」こと、言い換えれば「罪の意識を背負って立つ」ことが唯一の償いだと考えています。
自分が引き起こしたすべての「汚れ」に責任を持つ。
「汚れ」の一つ一つを糧にし、尚も得るために手を伸ばす。
せめて受けた傷や与えた傷達に意味を与えるために。
どんなに大きなものを得たとしても過去に人を傷つけた記憶が武勇伝や美談になったりはしえないのですが、それでも傷だらけになりながらも掴み取ってきた自分の手を内心で誇ることは出来ます。
自分だけ綺麗でいようとする人の言動は当たり障りなく、一見信頼が置けますが、「そんなに本気ではないんだな」というか、どうにも薄っぺらく見えてしまいます。
逆に、綺麗ではいられないことを覚悟のうえで自分の夢に忠実に生き、その過程でかいた「恥」や犯した「罪」をも背負って尚突き進む様は、その人の言動や生み出すものにある種の「説得力」を生むように思います。
ここまで読んで「そうか、どんどん恥かいて他人も積極的に傷つけていけばいいんだな!」と読めちゃうような読解に不安がある人はそもそもこの記事を読んでいないと思いますが、
現実問題、一切恥もかかずかかせず、誰も傷つけず裏切らずに欲しいものだけ得るというのはほぼ不可能と思っていい。
大きいものを望むなら尚更。
何かを叶えたいなら、何者かになりたいなら、自分だけは綺麗でいられるとは思わないことです。
安全を諦めて、自ら泥の中に手を突っ込みましょう。
手が血に染まる可能性を受け入れましょう。
背負った悔しさや罪の意識に意味を与える為、手を伸ばし続けましょう。
・・・・・・・・・・・・・
今後も「死ね」より「殺す」の精神で、主体的に、能動的に生きていくつもりです。
話は変わるのですが、ひと昔前と違って誰かに死んでほしいと強く思うことがとんと無くなりました。
周りの人に恵まれていなければこうはなっていません。本当にありがとうございます。
しかし僕がたまたま恵まれているだけで、そうでない人も地上には大勢います。(僕の友人も含め)
そういう人達の心に、それぞれに合った色の「火」を灯していけたらと願っています。
汝、自由で在れ。
YUKISHIBA


![【あまり為にならない人生訓】最悪死ねばOKという生き方[第二版]](https://static.wixstatic.com/media/d73e90_2829ce1b99164cb1b0beb678ec80f97a~mv2.png/v1/fill/w_980,h_551,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/d73e90_2829ce1b99164cb1b0beb678ec80f97a~mv2.png)

コメント